高速度撮影のノウハウや耐衝撃技術に関する内容を随筆風に綴っていきます。
最初は「技術的エッセイ」と名付けていたのですが、エッセイと呼べるかどうか自信がないので、「随筆風技術論」にしました。
技術者にとって面白いだろうと私の思っているテーマを、いろいろ書いていくつもりです。
そのほか、息抜きになるかどうかわかりませんが、日々感じている疑問や推論を理屈っぽく論じます。
全体にまとまりを感じられるよう、テーマの構成や順序、内容を適宜変更していくことになると思います。
よろしくお付き合い願います。
ご意見ご質問ご要望があれば内容の充実に活用させていただきます。
メールにてお寄せください。
【制作日 2011年7月1日/更新日 2011年9月18日】
「職人」の文章に間違いがありました。
行きつけの店の名前は「岩田」ではなく「岩戸」でした。
どこで思い違いをしてしまったのか、行きつけなのにお恥ずかしい話です。
タイトルの後に※マークのついているエッセイは息抜き的内容のテーマです
私が、よく、ふと思い浮かべる考えに、私はどこまでが私自身なのかということがあります。精神的なことではありません。空間内に占める私はどこまでだろうということです。なぜ、こんなことを考え始めたのか。
昔、「蠅人間の恐怖」という映画がありました。原題を「FLY」と言いました。同じ「FLY」でリメイクもされています。リメイク版の邦題は「フライ」そのままでした。物質電送機を発明した科学者が、自分を実験台に瞬間移動しようとした時、装置内に一匹の蠅が紛れ込み、電送時に合成されて蠅人間になってしまうという話です。映画のテーマは人間が次第に蠅の意識に支配されていく苦悩を描いています。
私が興味を持ったのが、物質電送にあります。これからいろいろ理屈をこねますが、決して映画にケチをつけているわけではありません。むしろ映画の内容は面白いと思っています。可能性はほとんどないと思いますが、物質電送を実現できたとしてもいろいろ矛盾があります。物質伝送機の理論が分子の空間配置を再現するものなら、蠅人間は生まれません。一匹の蠅と人間が同じ位置に出現するだけです。このときは、転送先にある気体分子は邪魔になるので、真空にしておかねばならないでしょう。リメイク版にイメージされていたように、DNAレベルまで読み取り、再現するのであればこのような事故が起きるかもしれません。しかし、私の体の中には、遺伝子を持つものが無数に存在します。大腸菌がその例でしょうが、なぜこの遺伝子は紛れ込まないのか。ミトコンドリアはどうでしょうか。
もうひとつ、遺伝子レベルで再現されるのだとしたら、それは生体反応のあるものだということなのでしょうか。ならば、腹の中の未消化食物はどうでしょうか。見たくはありませんが、転送した後に腹の中のものが落ちて積もっているのでしょうか。もしそうだとすれば、大腸内視検査のように消化器を洗浄することが可能になります。大腸検査で腹の内容物を排出するのに、1日を費やす必要がなくなるわけです。皮膚・爪・毛髪はどうでしょう。爪は人為的に削除しなければいけませんが、皮膚組織や脱毛は次第に非生命体へと変化していきます。
空間に占める私がどこまでなのかという疑問は、ここに由来します。空間の中で、肉体(生命体)が外界(非生命体)に接する部分は、実は曖昧なのだということです。私たちの体は、僅かですが外に向かって拡散しています。もっとも、分子の集合体ということを考えれば、生命体の定義も難しい。体の中の酸化水素(水分)も生命体の一部と言えるのでしょうか。DNAはたんぱく質を定義していますが、細胞内や血液の水分量の直接情報は持たないでしょう。タンパク質の複雑な機能の成果として水が体内に溜まっているにすぎません。もうひとつ、DNAレベルまでの解析で記憶情報を電送できるかという問題も考えられますが、これは今回のテーマとは少しずれるので止めておきます。本当は、記憶の再生のシナプスのメカニズムという手に余る難題なので・・・
前のテーマと続いて哲学めいた話をもう一つします。哲学と言えるかどうかわかりませんが、こういう理屈っぽい話が好きなのです。
以前、何かのコラムで見たのですが、テレビでアイドルか女優さんが、「人口がこれだけ増えてくると、地球はどんどん重くなっているのですね」と言ったという笑える話がありました。当然、地球と地球上の全物質の質量が変化することはほとんどありません。ほとんどというのは、どれぐらいの量か知りませんが隕石により持ち込まれる物質もあれば、ひょっとしたら宇宙空間への大気の分散現象もあるかもしれないからです。
人口が増え続けるということは、どこかの炭素や水素やカルシウムなどが無くなっていることになります。森や石油の減少などでしょうね。温暖化の問題になっていますが、石油や石炭は太古の動植物ですから、それを燃やすということは、炭素や水素の再生に当たるかもしれません。炭素・水素・酸素・カルシウムなどの生態系の組織分子は流動しています。動物の場合、食物や酸素など日々身体に取り込まれている分子は、体の構成やエネルギーとなり、老廃した組織(分子レベルでの老廃は考えられませんが)や燃えかすの炭素酸化物は排出されます。最短、老廃物や二酸化炭素が庭の野菜に取り込まれ、また私の体の一部になるかもしれません。もちろん、分子に個体差があるわけではありませんので(ひょっとしたら分子にも個性があるかもしれませんが)、分子を識別することに意味はありません。しかし、分子の流れを追えば、私の一部になった分子が体外へ出て、巡り巡って帰ってくることなんてことも想像できるわけです。もし、好きでもない人に、「私の体の一部がいつかあなたの体の一部になっているかもしれない」などと言われたら、気持ち悪い、なんてことも考えてしまいます。
人間に限らず生命体は、空間的にも時間的にも、今ここに分子の流れが澱んでいるだけなのでしょうか。分子を構成する粒子が原子核の周りの電子雲で形作られていることを考えれば、全ての物質そのものがエネルギーの澱みかもしれません。本来の意味とは異なりますが、色即是空ですか。
携帯電話を落とすと壊れるかもしれません。電話会社は落下に対する保証はしていませんが、落下実験を行い、ある程度の品質を確保しています。携帯電話に限りません。モバイル機器は、パソコンやゲーム機、最近出回っている読書端末など、落下の危険はいつも存在します。落としてしまった時、外観に破損がないとホッとすることでしょう。しかし、安心はできません。内部に損傷があるかもしれないのです。
携帯電話で例えてみます。携帯電話を角から床に落とすと、ケースの損傷する場合があるでしょう。しかし、この時、内部も壊れるとは限りません。外装が変形して壊れることで衝突のエネルギーを吸収できるのです。プラスティックが柔らかくなくて割れてしまっているのですが、それでも外装がクッションになっているわけです。もちろん、落下高さなど、程度によって外も中も壊れることもあり得ます。
今度は携帯電話を平らに落としてみたらどうでしょうか。ガラス側を落とすと割れてしまいそうですが、逆に裏のプラスティックの方からうまく平らに衝突した場合、外装は壊れにくいものです。このとき、内装部品を損傷する可能性があります。この落ち方は、少々クッション性のある床でも、安心できません。柔らかめの床は、角から落ちたものの保護には大きな効果がありますが、平らに落ちるとそのクッション性が激減するのです。
衝撃力は加速度で表されます。f=mαの数式はほとんどの方がご存知でしょう。この衝撃加速度のαがどれぐらいになるのか。衝撃加速度は、衝突時変形しながら減速する値です。落下衝突ですと、落下物と床の双方が変形しながら速度を落としていきます。この加速度は、落下物の部位の変形の度合いにより異なります。床との接点の加速度は床の変形のみで決まります。コンクリートの床ではとても大きな衝撃に思えますが、それでもコンクリートでも変形してマイナスの加速度を生じます。変形しないとすれば加速度は無限大にとなり、とてつもない破壊力を示すはずです。通常は、このような現象は存在しません。床との接触部の加速度は非常に大きいものですが、そこから離れるにつれ、落下物の変形により加速度の値は急激に落ちていきます。ここに、外装が壊れなくても内部に損傷の起こす可能性を秘めています。
広い面で床に接触すると、衝撃力が分散され、変形量が小さくなり加速度が大きくなります。その加速度は内部まで伝わり、部品に衝撃を与えることになります。この落ち方ですと、外装は広範囲の接触で力が分散されるため大きな損傷を受けません。
もし、携帯電話を落としたときは、外見の損傷に限らず、中身も心配してやってください。
携帯電話に代表される、持ち運びできる機器を設計している方々は、落下に対して涙ぐましい努力を繰り返しています。本来持つ携帯電話の機能は、通話やインターネットアクセスなどで、耐落下衝撃はあくまでも二次的な付随機能の意味合いです。だからあまり注目されていません。工場で使うノートPCなどの携帯機器には最初から落下を意識したものがありますが、商品としてはごく僅かであり高価でもあるでしょう。携帯機器と言うには武骨であったりもします。
年々新発売を繰り返す携帯電話機の宣伝のうたい文句に防水機能はあっても落下を保証するものはまずないでしょう。多分保証はできないと思います。しかし、保証していなくても落下破損が多い機種となれば、噂も立てば販売店もお客さんの勧めることも躊躇するようになるのではないでしょうか。だから簡単に壊れるものでは困るわけです。だけど、製品企画段階から落下を意識する設計はできません。携帯機器の製品コンセプトは通信や映像など本来の能力に加え、軽い、薄い、持ちやすいなどが機能として組み込まれ、さらに良いデザインにくるまれます。最後に、落とした時に壊れにくいことが望まれます。この時点で、設計者に工夫の余地はありません。緩衝剤で覆うとか、内部に十分な緩衝空間を設けることなど、許されるわけはありません。表面素材にも大して選択肢がないのではないでしょうか。さらに、落下という現象の多様さがあります。手に持つとか、指で押すなどの人の触れる部分の形は、手の大きさや指の太さ、押す力、あるいは心地よさであっても、まだ分析でき対応可能な領域です。
落下条件は様々です。落ちる姿勢、ぶつかる相手の床やテーブルの材質、落下高さなどが絡み合います。携帯電話などは、落下高さは耳の高さを仮定していることが多いようですが、そこから素直に手を離すなどということはあまりないのではないでしょうか。例えば、バッグに仕舞おうとして腕を下ろした際、手を滑らせたとすれば衝突速度はどれぐらいがわかりません。落ちる姿勢により受ける衝撃の異なることは、「落として壊れる時」に書いた通りです。これを踏まえ、開発時の落下実験はランダム落下と姿勢制御落下を行うことが多いのですが、姿勢制御落下は判り易さからだと思いますが6面12稜8角という6面体の特徴点を使うことが多いのではないですか。ほとんど可能性のない6面(確率的には6面合計でも1%以下です)が内部に大きな損傷をもたらす可能性のあることも、「落として壊れる時」の通りです。6面のうちの一つ背面水平落下実験で、それは自然落下では2/3000程度の確率でしかないのですが、損傷が出れば設計者は対策を取らざるを得ません。
そもそも破壊そのものが確率的な現象です。同じものを同じ力で破壊しようとしても、ちょっとした力や材質のむらで、壊れたり壊れなかったりします。落下の大きな破損を生むのが落下姿勢の確率的な問題なら、破壊そのものも確率的に考えるしかありません。加えて、営業的には、落として人が苦情に至るかどうかも確率的です。同じ1.5mの高さから落としても、落とした自分が悪いと思うか、壊れた機器が悪いと思うかは、やはり確率の問題でしょう。
確率を相手に設計するのは非常に難しいものです。確率的に判断するには、実験回数を増やさなければいけません。もともと落下は確率的ですので、破損確率の高い条件を探し、その対策を考えることになりますが、これだけでも相当の実験をしなければいけません。そして破損を再現し、対策を同じ条件で実験する必要があります。実験が困難な上、回数も必要です。さらに、同じ試料を何回も落とすと、少しずつ破損の進む可能性もあるため常に新品を落とす必要があり、資料の数も相当量必要です。加えて、落下破損では試作品と量産品の品質差も大きな問題になります。これだけの実験は通常無理でしょう。
実験は、コンピューターシミュレーションに置き換わりつつありますが、モデリング誤差や実験再現性などシミュレーションデータとノウハウの蓄積、その分析が重要になります。シミュレーションは実験誤差に当たるものがありませんから、実験より回数は格段に減りますが、それでもかなりの手間を要します。実はこれらの複雑な内容をカバーできる可能性が設計者の勘です。可能性というより、昔から設計者はこれらの複雑な現象を無意識のうちに取り込んできたのではないでしょうか。
落下強度を向上させる設計の発想もまた非常に困難ですが、これは別に論じたいと思います。このような中で、ほとんどの製品が使用に耐えているのは、損傷の危険性が思うほど多くないためでしょうか。あるいは、まだ優秀な設計者の勘が存在している証でしょうか。
衝突破損の受けた製品の衝撃値は、衝突する製品自身に原因します。これは衝突する方とされる方のどちらであるかは関係ありません。
次の図をご覧ください。
梁への物体の衝突を模式化したものです。3つの梁に衝突する時のボールの速度は同じです。いずれも下死点で速度が0になった状態を示しています。当然、梁が薄いと大きくたわみ、梁が厚いとたわみは小さくなります。
ここで、梁のたわみに注目してください。ボールが接触したときから速度が無くなる下死点までの距離は、たわみが大きいと当然長くなり、その時間も長くなります。従って、たわみが大きい薄い梁は、加速度が比較的小さいわけです。逆に、厚みのある梁は、変形が小さく加速度が増大します。F=mαで衝撃を考えるとすれば、αの値が一定値ではありません。加わる力が梁の厚さに比例して大きくなり、静力学の梁の厚みの3乗の補強効果はないわけです。衝突する部品は、自分の変形で生じる加速度の衝撃を受けることになります。その衝突エネルギーが等しい以上、梁の厚みに関係なく同じ程度の曲げ応力を発生するのは、考えてみれば当然かもしれません。コンピューターシミュレーションによれば、梁の厚みを2倍にしても、1~2割強度は増しますが8倍には程遠いものでした。
実は、解析を実施するまで、このことは想像だにしませんでした。結果を疑い、解析結果を分析し間違いのないことを確認した結果、この考えに気がつきました。ボールの落下が分かりやすいため、この例を使いましたが、静止しているボールに梁を衝突させても同じ現象です。携帯電話などの外装は、補強しても、思うほど強度を上げられないばかりか、変形が他へ移り異なる場所の破損につながるかもしれません。逆に、特に弱い場所を強化して、他を変形させることも必要かもしれません。
そもそも、落下に対して材料を柔らかくするべきか、硬い方がいいのか、難しい問題です。ただ、言えることは、衝突時の速度が0に至るまで、多かれ少なかれ、全ての構成部品が必ず変形するということです。変形するということを容認し、一部の大きな変形は補強して変形を他に逃がすなど、バランスのいい変形を設計すべきでしょう。
ある時閃いたのです。仕事中でした。落下問題を検討中で、携帯電話が水平に落ちる時内部衝撃が極大になることは分かるのですが、その確率はどれぐらいなのか。落下試験を繰り返すとしても、その回数は十分なのでしょうか。
理論的に水平に落ちる確率は0です。ある程度傾いたときに同程度の衝撃を受ける確率を考えることになるのですが、3度程度傾いた頃から衝撃値の急速に落ちることが、LS-DYNAの解析結果数値からわかりました。自由落下姿勢は三次元空間のあらゆる角度を具現します。だとすれば、その姿勢は球体表面に接することになります。落下の傾きを考慮すると、水平から誤差の角度を含んだ確率は、その角度の球冠、球の部分面積に因ることに気が付きました。
球冠の面積Aは球半径rと傾き角θの弦長さlに対し
l=2rsin(θ/2)
A=πl2
=4πr2 sin2 (θ/2)
全球表面積は
Ah=4πr2
球冠面積の比率は
A/Ah=4πr2sin2(θ/2)/4πr2
=sin2 (θ/2)
=1/2(1-cos(θ))
この値を計算すると以下のようになります。
角度(deg) | 0.5 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
---|---|---|---|---|---|---|
比率 | 1.9E-5 | 7.6E-5 | 0.00031 | 0.00069 | 0.0012 | 0.0019 |
すなわち、携帯電話を誤って落とした時、平らに床に衝突して内部損傷する確率は、3000回に2回ぐらいなのです。この数字を大きいと見るか、小さいと思うか。1人の人が買い替えまでの間に10回ぐらい落とすとすれば、150人に1人が内部損傷する可能性があるので、携帯電話の姿勢制御水平落下の過酷なテストをする必要があるかもしれません。しかし、小さな部品の単体落下試験などは問題です。姿勢制御をせずばらばらと自由落下させた場合、20個の試作品を50回落としたとしても、過酷な姿勢で落ちる確率には至りません。200個にするか500回にするか、いずれにせよその試験は、労力の上でも過酷ということになるでしょう。
球冠面積の公式はネットにいくつか掲示されているので参照して下さい。
「つくし誰の子すぎなの子」、誰もが知っているこのフレーズはやはり歌でした。インターネット検索で知ったのですが、歌の一番の歌詞がこれで全てでした。メロディーは全く記憶がありません。
今回の話はこの歌のことではありません。ご存知のように、春になるとかわいい土筆が顔を覗かせます。子供の頃は、田んぼの畦に硬い土筆の小指の先ほど地表に顔を出したつぼみを見つけると、浮き浮きと心躍り母に見せに走ったものです。土筆が胞子を飛ばして枯れた後に、杉菜が芽を伸ばしてきます。ところが、この胞子苞の土筆が杉菜の先端に現れていたのです。いつもの飼い犬の散歩道のアスファルトとU字溝の隙間に生えた杉菜の先端でした。土筆ほど大きくはないのですが、確かに同じ形です。このような姿は見たことがありませんでした。
土筆はかわいいのですが、杉菜は厄介者です。庭に繁茂し、見苦しいったらありません。抜いても地下茎が残り、またすぐ生えてきます。庭から根絶してやると、掘り返して地下茎を根こそぎにしたことがあります。秋でしたが、その地下茎には土筆の立派な芽が付いていました。
考えてみれば、この時の土筆の頭はあのアスファルトの隙間を通れそうにありません。確かに、そこで土筆そのものを見かけたことはありません。自分の分身を残すことのみが使命の植物が、苦肉の策に常識はずれな行為に出たのでしょうか。
確か、何年か前に撮った映像があったのですが、3台のPCの膨大なフォルダーに埋もれ、見つけられませんでした。今年の状景は撮りませんでしたので、もう少し探してみて見つかったら貼り付けたいと思います。
落下問題に係わる方は、よくG値を口にします。技術者はよくご存じでしょうが、Gとは重力単位で、重力加速度の9.8m/secを1Gとします。衝撃加速度を重力単位で表す訳です。例えば、スペースシャトルの最大加速度は3Gであるとか、F1レーサーの受ける横Gは4Gだとか(インターネット調べ)。
落とした時の携帯電話にかかるGは幾つかという漠然とした話が殆ど意味のないことは、「落として壊れる時」に述べている通りです。携帯電話が受けるG、すなわち、携帯電話に発生する衝撃加速度は、ほとんどが携帯電話の変形に関係し、場所により大きく異なるためです。携帯電話の設計者が、携帯電話構造体の受けるGについて話されることはないでしょう。Gが問題視できるのは、スペースシャトルやF1のように、環境としての加速度です。携帯電話なら、ICや振動モーターなどの部品の受ける加速度ということになります。Gが分かれば部品の品質保証に役立ちます。
車にも最近は電子部品が多数組み込まれていますが、自動車は道路から受ける衝撃をある程度把握できますので、部品保証のGを提示するのは可能です。それでも、普通はプリント基板での装備ですから、基板の位置や取り付け方向、基板内での部品の取り付け場所によりかなり変化するはずです。困難なのは、携帯機器の落下でのGです。携帯電話で例えますと、そのGを測定するのが非常に困難です。
衝撃値はその製品が軽いほど大きくなります。床の変形も少なければ軽いものは大抵小さいですから、製品そのものの変形量も僅かだからです。ところが、測定する値が大きくなると、加速度センサーも大きく重くする必要があります。私の知っている範囲では、最大測定値は10000Gで、その衝撃に耐えることと精度維持から重く大きくなるのではないかと思います。大きいといっても1cm立方程度ですが、加速度センサーを取り付けたことにより変形が起こり、衝撃を緩和する方向に傾きます。携帯電話表面にセンサーを外壁に取り付けて測定したりしますが、大抵一か所でしょうから代表的なG値を取ることにすらなりません。これが有効なのは、シミュレーション結果の検証のみでしょう。シミュレーションモデルの正当性が立証できれば、細部のGも検証できますが、また難しい問題がありますので別の機会に述べさせていただきます。加速度センサーは内部の基板などには取り付けようがありません。外殻に穴を開け基板に取り付けたとしても、穴を設けることにより剛性が変わることと、加速度センサーの重さによる衝撃緩和はやはり問題になります。
場所により衝撃値が大きく変化するのは当然ですが、衝突姿勢でも変わります。これも「落として壊れる時」に書いています。内部に組み込まれた部品にとっても、衝撃を受ける方向により損傷は大きく異なります。その組み合わせにもよることから、落下衝撃は確率的に考えるほかないのではないでしょうか。もともと一つのGの値で落下機能を評価することに無理があるのです。
私の携帯電話の重さは90gです。これを落としてしまった時の衝撃と、175gのコンパクトデジタルカメラの落下衝撃とでは、ズシリと重いカメラのほうが大きいでしょう。見た目にもその衝撃力が伝わります。
では、内装部品の受ける衝撃はというと、平均的な衝撃加速度は重いカメラのほうが小さくなります。このことは、衝撃加速度が製品と衝突対象の双方の変形によるためであることを「落として壊れる時」に述べています。こう言えば納得されるかもしれませんが、次の例は如何でしょうか。
パチンコ店のパチンコ玉と陸上競技の砲丸。この上部に1mm四方のICチップを貼りつけて、コンクリートに1mの高さから落とす状況を想像してみてください。その破壊力は当然砲丸に絶大です。しかし、ICチップの受ける衝撃はというと、砲丸のほうがはるかに小さくなります。意外ではないでしょうか。「耐衝撃設計の難しさ」で証明しましたように、衝突加速度を考えてみれば了然です。軽くて小さいパチンコ玉は、床もパチンコ玉も変形が小さいため、加速度は大きくなります。砲丸を落とせば、たとえコンクリートでも沈み込み、その分衝撃が緩和されるのです。
携帯電話をコンクリートに落としてしまうと、精神的な衝撃は大きいのですが、内部の破壊力はどれほどでしょうか。デスクトップパソコンを運搬中手を滑らせたときは、その衝撃におののいてしまいますが、内部は携帯電話の落下と比べてそれほど衝撃を受けないものです。衝突の視覚的衝撃は、あたかも全ての構成要素に影響しているかのような錯覚を覚えてしまうのです。ただ、デスクトップパソコンを運搬中に落としてしまった場合は、携帯電話ほどには落下の可能性を考慮していないでしょうから、壊れてしまうかもしれません。
近日公開
近日公開
近所のなじみの床屋さんに行った時のことです。散髪椅子の前の鏡の前のカウンターにやかんが置いてありました。お湯を沸かす普通の2リットル程のやかんでした。
「これは何?」の私の問いに、ボイラーの故障が告げられました。「散髪がこれでできるのですか?」「結構大丈夫ですよ。洗う状態が見えるので、効率よくお湯を流せるので意外と少なくて済みます。洗いのすすぎもリンスの流しもこれだけで済ませることができるんです。」「本当ですか」と聞いたのも当然でしょう。もし、私が風呂桶のお湯で頭を洗うとしたら、洗面器に何杯使うでしょうか。1リットル程度の水をまず6~7杯は使うでしょう。それを1/3程度だけで済ませると言います。
しかし、考えてみればシャワーで洗い流すとその流量はこの床屋さんのやかんより少々多い程度のように思いました。少しずつまんべんなくお湯を掛ければ、そんな水量は必要ないのです。そのようなことを、ボイラー故障の非常時に実践できるのは、さすが職人と感じ入りました。
崔洋一監督の「月はどっちに出ている」を見てはいません。ただ、この題名の響きに何か魅力を感じていました。いずれビデオを借りたいと思っています。ここに書きたいのは、これとは全く関係のない私の経験からのその単純な結論までの話。実物の月と地球と太陽の話です。
冬至の頃の満月は、一年で一番高く昇ります。太陽の逆なのです。位置関係を考えれば単純なことです。冬至の頃、地球の地軸は北半球で太陽の反対側に傾いています。その頃の満月は地球にとっては太陽の反対側、外側に位置しています。地球の地軸の北側は月に傾いていますので、月は夏至の太陽のように、天高く昇るのです。ただ、この単純な考えに至るまでにはかなりの時間を要しました。この現象に気付いたのは愛犬との散歩でした。
散歩道は東に向かい、右の谷間の開いた田畑とその向こうに広がる大地のかなたに山並みが連なっています。左手には10m程度の小高い丘が続き、冬枯れの木立が覆っています。初冬の夕暮れにそこを行くと冬枯れの木立をシルエットにして満月が昇ってきました。その時、違和感を感じました。確か道の右側に見えている山並みの中秋の月の出に感激していた。そう、二か月前は右手から月が出ていたのです。普通、夏至を過ぎれば太陽の昇る方角は南の方に移っていきます。それなのに、今の月は中秋の名月より北寄りに移っている。いろいろ悩みました。なぜ月と太陽が異なるのか。
先ほど書いた、宇宙での位置関係を思いつけばどうってことなかったのですが、太陽の出入り、月の出入りが邪魔をするのです。無意識のうちに思考は地動説に陥っていました。しかし、地動説でも本当は構わなかったのです。地球を中心にすれば、太陽は1年で地球の周りをまわります。地球の地軸の傾きが、その1年の中に四季を作ります。月はおよそ28日で地球の周りを巡ります。月にとっては、その中に四季があっていい訳です。月の満ち欠けは太陽の影ですから、地球と太陽の位置関係で決まるため、実感として捉えにくくなっているのでしょうか。
月は1年、ほぼ12か月の間に毎月のそれぞれの満ち欠けの状景で、ほとんど太陽の夏至の位置の空高くから見下ろしています。新月、三日月から半月、満月を巡って。
あまり東京に出向くことはありませんが、東京に行けば訪れたい店があります。神田にある「岩戸」という店ですが、本店は銀座にあるようです。最初に行ったのは3年ぐらい前ですか。自慢ではないのですが、私が選ぶ店は結構当たりが多いのです。田舎に住むとおいしいものを食べたいと思ってもあまり店がありません。人口が少ないので当然です。たまに東京に行くと何か旨いものをと思うのですが、今度は店が多くて選べません。
この店に行ったのはこういう経緯です。それまで新橋で見つけて何回か訪れたのは「鳥仙」という焼き鳥屋さんです。身内の者が新橋に勤めていたので、一緒に飲む店を探してのことです。あらかじめあちこち歩き回り、店の表の趣から決めました。こう言っては失礼ですが、実に汚い。店内では小さな茶羽ゴキブリが壁の羽目板の隙間から、かわいくもさえ出入りする趣です。しかし、焼き鳥の焼き具合が絶妙で、20人も入れないような店はすぐに一杯になります。グループのお客には女性が含まれてもいます。
次は神田にでも行ってみようかという話になり、5月ごろ神田駅の周りを2人で歩き回りました。やはり多すぎてこれという店を見つけられません。たまたま買ったばかりの靴に靴擦れができていたため、駅前の薬局で絆創膏を買いました。そこの方においしい店はないかと伺うと、飲みに行ったことはないが昼食はおいしいですよ、と教えていただいたのが「岩戸」です。「岩戸」の看板の前でしばらく佇み、ここと決めました。たまにしか東京には来ないので真剣勝負です。何を根拠に決めるのか。メニューの内容よりは品書きの書き方、それと玄関の風情。特に立派な外観でもなく、一杯飲み屋よりは割烹に近いのですがそれほど澄ました感じでもない。直感を信じて2人で入りました。
今回は一人です。半年ぶり4~5回目ですが、「今日はおひとり?」と仲居さんに言われました。一人で来ても注文以外の話はほとんどしないのですが。店は3人の板前さんと2人の仲居さんの5人です。テーブルと座卓で30~40席、カウンターは5席、この日はそのカウンターにも予約が入っていましたが座ることができました。私は厨房の中が見渡せるこの席が好きです。いつも午後5~6時ごろの早い時刻に訪れるため最初は静かですが、次々にお客さんが入り、この日もいつの間にか満席で予約の無いお客さんは帰っていきます。この職人さんたちでこれだけのお客を相手するのは素人の私でも大変さが分かります。仲居さんはサンダルの小走りの音が絶えません。配膳も片づけもいつも小走りです。歩いている音は全くありません。音が一瞬途絶えるのは、接客中か厨房に声をかける時のみです。失礼ですがこのお二人、私の年齢と同じくらいかそれ以上か。忙しくて呼んでもすぐには来てはもらえませんが、一人客にも対応は常に穏やかで厭味がありません。まさに職人です。板前さんは、年配の親方と若い二人、二人はまだ20代でしょうか。親方は刺身を作りますがそれ以外はあまり動きません。それでも若い二人の指導もあり忙しそうです。若い二人は、一人が火の前、一人がまな板の前です。何と呼んでいいのかわからないので、すみません。板前さんが注文を受け親方と煮焼き方さんに伝えます。この若いお二人がすごい。私が席に着いてから二人はとにかく動き続けています。次から次へと注文をこなしていきます。私語は全くありません。ほほ笑むことも全くしません。しないというよりできません。注文に従ってするべきことを各々自ら判断し、てきぱきとこなしていきます。親方はたまに二人から味見を乞われて確認する程度で、指示は全くありません。ただ、若いせいか余裕もありません。とにかく必死さが見てとれます。まさに職人です。この方たちの様子を楽しみながら、少々料理を待たされても酒が進んでしまいます。
最後に、このお店のお勧めです。「いわしの刺身」と「海老しんじょう」。この二つは予約しておかないと食べられないかもしれません。もう一つは「鱈のあら煮」です。時間がかかるので最初に頼んでおきます。最後に頼んで待っている間にもう一本飲んでしまい、飲み過ぎてしまったことがあります。この「鱈のあら煮」は夏でも食べられますが、冬に限ります。
この随筆は段落句読点無しで書くことにしますそのいきさつは次の通りですこのホームページを依頼した会社との間でちょっとした議論をしましたWEBでは段落は入れないことが多く段落を入れると読みにくいという話もあるということです確かにWEBの説明文の短いセンテンスでは段落は煩わしいかも知れません段落はいつ頃から使われるようになったのでしょうか日本最初の小説と言われる源氏物語の原文をネットで探してみました見つけた写本には段落どころか句読点もありませんでした私の好きなテレビ番組のなんでも鑑定団に出てくる時代物の手紙も思い出してみれば文字の羅列でしかありませんネットを探してみるとその経緯があちこちのサイトから分かりましたもともと源氏物語の昔は書物を読むのは知識階層のみで教養のある人はこのような文書でも読むことができたので段落も句読点も必要が無かったとのことですどうも西洋でもそれは同じだったようです段落句読点は江戸時代に庶民が文書を読むようになり読みやすさのためにいろいろな区切りを入れ始めたそうです明治に入り西洋文面が先に使っていたカンマピリオドをまねてできたのが句読点であり他にも色々あった表記をまとめたのが明治末期の今でいう文科省でそれ以降今の丸点の句読点に統一されたそうです段落についてはどうだか詳しくは分かりませんがもともとは英文から来たとのネット情報がありました段落句読点とも一般大衆の要求で生まれたようですので一概にないがしろにできないように思いますここまで書いてある思いが浮かびました今私はワープロで試行錯誤の文章を書いていますが源氏物語の時代は筆書きによりあの長編を書きあげたのでしょうか写本では修正の跡を見ることができません書き損じ無しにあの長編をしたためているようですそれだけでもすごいのですがもし紫式部の校正の跡のある原稿が見つかったりしたら実に興味深いものでしょうね今この文章を見返してみると段落句読点が無くても読めることに意外性を感じていますもともと日本の文字は筆の流れから区切りが分かるようです今のデジタルなこのような文面では昔よりかなり判読が難しい筈なのですが
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